2006年01月29日

教会報「きょうほ」メッセージ:第25号(2006年1月29日発行)

「信仰のまなざしによって」

 「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」。この言葉は旧約聖書のコヘレトの言葉の中に出てくる有名な言葉です。口語訳聖書では「空の空、空の空、いっさいは空である」と訳され、覚えておられる方も多いのではないでしょうか。
 生老病死という仏教語がありますが、これは人生で避けることのできない、人間の4種の「苦悩」を表す言葉です。つまり生まれること、老いること、病気をすること、死ぬこと。私たちの人生にはこのような根元的に避けられない苦悩があり、また様々な不条理の問題があります。これを突き詰めていくと、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」という言葉が疑いなく真実であるという気がしてきます。コヘレトは現実の空虚さ、無意味さをリアルに描写し、いっさいは空しいと言うのです。
 しかしただ一つだけ、この書物にはこの「空しい」という響きとは違う部分があります。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」(3章1節?8節)。そして3章11節には「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」。口語訳聖書ではもっとインパクトのある訳がなされていました。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」。すべては空しいと言っておきながら、神のなされることは皆その時にかなって美しいと言うのです。
 これは理解に苦しむ言葉かもしれません。しかし、神さまに思いを向けながら考える時に、少しずつわかってくることがあります。それは信仰のまなざしにあってはすべてが空しい中にも、ただ一つだけ決して空しくはならないもの、美しいものがある。それこそが神さまのなされるみ業であり、それを信仰のまなざしをもって見上げながら生きることが、私たちには求められているということです。
 私たちは生きることの辛さ、不条理というものを体験する時に、「いっさいは空である」という言葉が真実であることを知ります。しかしそれと同時に、そのような空しい世界のただ中に「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」ということ、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」ということが見えてくる次元がある。ある時、突如としてそのような次元が開かれることがあるのです。
 神さまは私たちを決して意味のない人生に導こうとはされません。私たちのすべてに責任をもってくださり、見捨てることなく共にいようとしてくださるのですから。そして、すべてを良きものに変えてくださるのです。
posted by 大阪昭和教会 at 15:21| 教会報:メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする